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  • Vol.15 岡田 三郎



     

    2017年12月24日、朝5時半に集合し山梨県北杜市に向かう。山梨は、南青山にある中国料理「虎萬元」(とらまんげん)の料理長・岡田三郎の故郷だ。富士山が美しく見える待ち合わせ場所で、岡田が昨年よりジビエ肉の取引をしている「峡北猟友会」(きょうほくりょうゆうかい)会長の五味さんが笑顔で迎えてくれた。この日は、14人のハンターのみなさんと“鹿狩り”に来た。畑を荒らす鹿を駆除し、ジビエ肉として再利用に取り組む新聞記事を読んで、いつももの静かで穏やかな岡田が、即座に知り合いでもない五味さんに連絡をしたのが「猟友会」との交流の始まりだ。いつか狩猟の現場に一度立ち合いたい。岡田念願の“鹿狩り”が実現した。




    中国料理事業部「虎萬元 南青山」料理長
    岡田 三郎(45歳)
    山梨県甲斐市出身。学生時代、和食割烹店の調理アルバイトから料理に興味を持ち、高校卒業後は甲府富士屋ホテルの和食部門に就職。その後は東京の日本料理店で修業を重ねる。一時、実家の山梨に戻ることになったが、勤務先近くにある中華料理店にふらりと入り、その時に食べた麻婆豆腐の今まで味わったことのない美味しさに衝撃を覚え、働かせてほしいと直談判する。これが“中華料理との出会い”となる。その店主の紹介で1997年際コーポレーション㈱に入社。2001年「白碗竹筷樓 赤坂」の料理長に就任。一年の休職中に「薬膳調理指導員」を取得。現在は「虎萬元 南青山」の料理長を務める。
     


     

    ルーツを辿った本場の“麻婆豆腐”

    2017年11月に堀切さん(編集部注:際コーポレーション 中国料理事業部 西日本調理部長)と“四川”に行って来ました。四川料理のルーツをめぐる旅です。地方の田舎料理を中心に食べてきました。四川省の「自貢」(じこう)は内陸なのに井戸を掘ると塩水が出てくるんですよ。井戸水からとれた塩でにがりを抽出して豆腐を作っているのですが、何ともいえない独特なにおいがあって、地元の子供は食べられない。大人になると食べられるようになるそうですが、あの豆腐の独特の味を消すために香辛料が効いた麻婆豆腐が生まれたのですかね。現地に行かないと分からないこともたくさんあり、勉強になりました。
    向こうの市場には、日本ではなかなか手にはいらない “ポルチーニ”や“キヌガサダケ”が生で普通に安く並んでいるんですよ。気になった食材は “どくだみ”。日本はお茶にしてよく飲みますが、四川では、生のまま薬味や和え物にして根まで食べます。強烈な苦味ですが料理に使ってみたく、先日、天然の“どくだみ”がたくさん生えている場所を思い出して摘みに行ってきました。四川の方に言わせると日本の天然の“どくだみ”は美味しいらしいです。
    本場の“水煮牛肉”も食べてきましたが、虎萬元の“水煮牛肉”とほぼ同じ味でした。虎萬元では“水煮牛肉”に麺をいれたメニューが人気なのですが、四川で出しても流行るような気がしました。ぜひ、四川でチャレンジしてみたいですね。

    人生を変えた町場の “麻婆豆腐”

    昔から食には興味がありました。高校の進路を決める時、ワイナリーに興味を持ち、工業化学科に進んだくらいです。料理人としては和食の修業から始めました。中華料理に心ひかれたのは、 “麻婆豆腐”との出会いがあったから。それは山梨に帰っていた時期にふらりと入った職場近くにある中華料理店「須弥山房」(しゅみせんぼう)の麻婆豆腐。山椒は山盛り、土鍋に入ってインパクトがあり、中華になじみがなかった私にはこの麻婆豆腐が本当に美味しくて衝撃的でした。その頃の私は病院食を作っており、食は痛みや苦しみを和らげてくれるものだとも気づかされたのですが、楽しさを届けるのも“食”の役目だと思い出すきっかけとなりました。この麻婆豆腐を絶対に習得したいと思い「タダでいいので働かせてほしい」と店主に直談判。好きな時に来ていいと言われ、時間を見つけてはお店に通って手伝いをするようになりました。
    短所は?と聞かれると「人見知り」と答えるのですが、これだ!と思い、ピン!ときたことには、、、人見知りを忘れて行動していますね(笑)。麻婆豆腐を食べた瞬間も、これだ!と思ったんです。職場だけではなく家に帰っても、料理のこと、メニューのこと、食材のこと、ずっと考えています。ずっとそんなことを考えているから、これだ!と思うものが目に入ってくるんでしょうね。そのひとつが地元、山梨のジビエでした。

    ふるさと山梨ジビエとの出会い

    たまたま新聞を読んでいた時、山梨で畑を荒らす鹿を駆除し、命を食材として活かす取り組みについての記事が目に入りました。日頃から山梨の食材を料理に使いたいと思っていたので、その瞬間にこれだとピンときまして、すぐに調べて電話をかけました。最初は「富士河口湖町ジビエ食肉加工施設」を紹介されましたが、肉の受注が既にいっぱいだと断られたので、次に紹介された北杜市の「明野ジビエ肉処理加工施設」に電話をかけました。「昨日やっと保健所の認可が下りたんですよ。取引、問題ありません。お客様第1号です!」昨日?第1号?運命を感じましたね。
    それから1ヵ月後の休みの日に、妻と子供たちと明野へ見学に行きました。対応してくれた五味誠さんは、若いながら優秀なハンターとして表彰される腕前。狩猟の仕方、処理の手順についても教わり、作業台や冷蔵庫の中まで見せてもらいました。誠さんの父親である「峡北猟友会」の五味力会長には実はこれまでもお世話になっており、旬の季節になると一緒に山椒採りやきのこ狩りに行く間柄です。去年、五味会長を虎萬元主催の「山梨八ヶ岳の鹿 薬膳ジビエと木の子の会」にご招待しました。ジビエの今後の普及のためにも、猟友会の皆さんが駆除した鹿の命がどのような形になってお客様に喜んでいただいているか見てもらいたかったのです。当日は、五味会長から山梨での鹿被害状況や狩猟の話、流通の現状を話していただきました。お客様も熱心に話を聞き、鹿料理も大好評、私にとって大変意味のある会でした。

    “鹿狩り”レポート

    • 8時集合。山梨県北杜市明野町の
      「峡北猟友会」のハンターのみなさんと待ち合わせ
    • 狩猟の作戦会議スタート
      まず山頂ポイントで狩猟犬2匹を放つ
      狩猟犬は臭いで鹿や猪を見つけて追いかける習性がある
    • 犬の首輪にはGPSがついており、犬がどこに向かっているかわかるようになっている
      立ち止まって何回吠えたかということも画面に出る
      吠える回数が多いと、獲物が現れたということ
    • この探査機を持っている者のみ、動いて犬を追いかけ、
      予めポイントで待機しているハンターに無線で状況を教える
      どのポイントで誰が待機するかが重要なため、念入りに打ち合わせ
    • いよいよ“車両通行止め”の策を開け、山の奥に
    • これ以上は車で入れない
      車を止め、ここから狩猟犬2匹と山頂まで歩いていく
    • 見た目は可愛いが、山へ向かう1時間の移動中ずっと吠えていた
      狩猟犬としての本能が半端なく発揮される
    • 山頂まで1時間程かけて登っていく
      他のハンターは作戦会議通りに、それぞれの担当ポイントへ向かい待機
      そこで、無線を聞きながら、獲物が来るのを待つ
    • 携帯電波も入らない山奥のため、
      状況は、無線のやり取りから情報をひろう
      広範囲での狩猟のため聞き取れないことも多い
    • 発砲音が4発聞こえる。無線からの情報で、
      親子の“熊“が現れたことが分かった
      それからまた2発聞こえたが・・・捕獲はできず
    • この日は気温0度、4時間待機したが、
      担当したポイントに獲物は現れなかった
    • 待機ポイントの周辺では、獲物の足跡が多数あり
      近くにいることは確かなのだが・・・
    • 一緒に待機させてもらった駒谷文絵(こまやふみえ)さん
      優しい雰囲気の小学校の先生。少しでも地元の役に立ちたいと
      狩猟の免許を取得したとのこと
    • 暗くなるギリギリまで狩猟してくれた「峡北猟友会」のみなさん
      大変お世話になりました
    • 終了後、五味会長特製の“鹿ロースの燻製”をご馳走になる
      塩加減が絶妙。辛しマヨネーズをつけるのが会長のおすすめ
    • 極寒の中で、捕獲する大変さを経験できました。
      今後は食材に対して敬意を表し、扱いをより大切にしたいです
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    地元が元気になるために何ができるだろうか

    去年、日本ジビエ振興協会主催の「ジビエ料理コンテスト」に応募しました。ジビエを使うならジビエ料理を広めるために発信していかないと意味がありません。私の考えた「鹿肉のにんにく辛味噌炒め 熱油仕立て」は、実食審査の最終5品に選ばれ、優秀賞をいただきました。
    それほどまでに“山梨ジビエ”にこだわる理由ですか?率直に地元愛です。東京に来て、初めて山梨の素晴らしさに気づきました。自分が心を開いていなかったのか、地元では人も閉鎖的だと思っていたんですよね。これほどまでに人も自然や食材も豊かということにも改めて気づかされたんです。実家の葡萄畑が鹿被害を受けて困っていることも聞いていたので、ジビエとして利用する記事を目にした時、鹿を食材として調理することで、私も地元に貢献でき、周りの人も幸せにできる。ジビエ料理を身近なものにしていきたいと新たな目標ができました。
    夢ですか?先日中国で訪れた“四川”の田舎村をまるごと山梨に作ることです。リトル四川村@山梨。山梨県と四川省は歴史的・文化的に似ているところが多いため、姉妹友好締結を結んでいるんですよ。お店を一軒やるのではなく、村をそのまま持ってきたら活性化につながりますし、行政と一緒にできたら面白いですよね。




    虎萬元 南青山
    東京都港区南青山7-8-4
    【ランチ】
    月~金 11:30 – 15:30(L.O.15:00)
    土日祝 12:00 – 15:30(L.O.15:00)
    【ディナー】
    月~金 18:00 – 22:00(L.O.21:30)
    土日祝 17:30 – 21:30(L.O.21:00)
    57席 ※カウンター7席 半個室3室



     
    ※掲載内容は2018年1月18日現在の情報となります。

  • Vol.14 長谷川 哲男



     

    「万豚記」(ワンツーチー)など町場の親しみある食堂や「紅虎餃子房」のようにリーズナブルに本格中華が楽しめる店、「白碗竹筷樓」や「虎萬元」といった高級料理店など、時代のニーズと共に幅広い中華業態を発信してきた際コーポレーション。そんな当社の集大成として2017年4月にオープンさせたのが、西麻布にある“中華割烹「龍眉虎ノ尾」(りゅうびとらのお)”だ。日本全国から集めたえりすぐりの四季の食材で、日本の歳時記を表現した中国料理を作りだす。季節にによって料理人も変えていく。そして2代目料理長に抜擢されたのが、長谷川哲男(ハセガワテツオ)だ。新たな試みの中国料理店を任されることになった長谷川にインタビューした。




    中国料理事業部「龍眉虎ノ尾 西麻布」料理長
    長谷川 哲男(46歳)
    埼玉県出身。実家はラーメン屋。店を継ぐ前に本格的な中国料理を学ぼうと、高校卒業後、「虎の門パストラル」の中国料理店“天壇”で修業する。簡単に習得できる世界ではないと実感し、ラーメン店は継げないと父に伝え、修業に専念。この世界の魅力にとりつかれた長谷川は、その後、「JALシティーホテル長野」四川料理“四川楼”にて料理長を6年半、ふかひれ専門店「筑紫楼 恵比寿店」の料理長を6年半経験し、2013年に当社に入社。「白碗竹筷樓」や「胡同マンダリン」の料理長へ歴任、現在は「龍眉虎ノ尾 西麻布」の料理長を務める。
     


     

    家族サービスはもっぱら料理

    今、一番楽しいことですか?“仕事”って言ったら面白くないですよね。この「龍眉虎ノ尾」をやらせてもらうことが嘘偽りなく、毎日が新鮮で楽しいです。
    中国料理との最初のつながりはというと、実は、実家がラーメン屋です。調理場が遊び場で、物心がついた時には、水を出したり食器を下げたりしていたそうです。当たり前のようにラーメン屋を継ぐつもりでいましたが、その前に本格的な中国料理を勉強してみようと思い、高校卒業後、中国料理店に就職しましたが、すぐにそんな甘い世界ではないと気づきました。修業をしていく中であっという間にこの世界の魅力にとりつかれ、現在に至ります。
    10歳の息子も料理に興味が出てきました。妻も働いているので休日の日曜日は私が朝昼晩と料理を作ります。週明け分までカレーや豚汁を作ったり、常備菜を大量に作ってタッパーに詰めたり。息子にも自分が作った料理を食べさせたいですから。家では和食が多いですね。寿司が好きで魚が好き。だから築地に行くのも楽しい。店の食材に関してもほぼ毎日築地に行って選びます。

    刺激にあふれた成都の旅

    10月に社長と当社の料理人達と四川の“成都”へ料理研修に行ってきました。基本的な四川料理、回鍋肉、麻婆豆腐、担々麺など食べられるだけ食べました。担々麺だけでも14食くらい。帰りの飛行機に乗る直前までひとりで担々麺を食べていました。空港のラーメン屋さんでも街中の汚い屋台でも、高級店の小さい碗で出てくる担々麺も、どこで食べてもすべて旨い!もちろん店舗ごとに甘い、辛い、酸っぱい、痺れると特徴はあるものの、どの店のものも、はずさないんですよ。中国の料理店レベルが、はるかに日本より高いと感じました。
    私は基本に忠実に中国料理を作ってきましたが、本場との違いを再確認できる旅でもありました。舌で感じたことなので、料理人でなければわからないかもしれませんが、その違いを日本に帰ってすぐ試したくなりましたね。感じたことが正解かどうか。そんな発見を料理人達で話し合う場も貴重な時間でした。同じ料理を食べて、意見を言い合う、とても面白く刺激的だった。私達料理人は、やってきたことが違うから感じ方が異なるのは当たり前なわけですが、自分と違う視点を聞けたことは大変勉強になりました。

    自分の原点であり、目標である店

    前職が激務で体を壊した時に、ふと思ったことがありました。自分が若い時に影響を受けた料理店で自分の腕ひとつで働いてみたいと。それが際コーポレーションでした。募集がなかったので直接本社に働きたいと電話をしました。今思うとすごい行動力ですね。
    私が20代の頃、「白碗竹筷樓」や「虎萬元」の料理はすべてが新しかった。出てくる料理は、新鮮で刺激的で何から何まで今までの自分の知識や経験、技術を覆すようなものばかり。今までは、上司の紹介で働く店を決めてきましたが、店の中に頼る人がいない環境に身をおいて3年、力を試してから独立しようと入社しました。今はこの「龍眉虎ノ尾」で働けることが楽しくてまったくそんな気持ちもなくなってしまいましたが。しかし、季節ごとに料理長が変わるという当社の新たな試み、その店の二代目料理長という言葉にプレッシャーもありました。ただやっていく中で、料理を誰の手も入らず1から10まで自分で仕込み、意のままの料理を提供する、こんな恵まれたチャンスは滅多にない。単純に自分のやりたいことをやろうと切り替えました。

    カウンターでのもてなしは最高の“楽しみ”

    この「龍眉虎ノ尾」は私にとっても挑戦です。何十年も厨房の中で料理を作り“接客”はしてこなかった私が、お客様の目の前で料理を作り、話もしなければいけない。最初に困ったことは、お客様に自分の姿をどう見せるかということでした。他のカウンター店を何軒も必死になって偵察に行きました。カウンターでの店主やスタッフの動き方、歩き方、そして所作。どんな会話をしているのか、自分との会話をメモするだけではなく、隣の人の会話もその隣の人の会話も聞き耳を立ててメモしました(笑)。
    実際にこのお店に立ってみて、今までと考え方が180度変わりましたね。作る料理も変わったと思います。お客様目線になったというか。豪快に食べた方が良い料理はより演出をしたり、逆にその必要がないものは食べやすく、食べ尽くせるようにしたり。毎日お客様から教わることがとても多いです。だからこそ、「龍眉虎ノ尾」での時間は、料理も空間も会話も非日常にしてあげたい。その演出のすべてに自分が関われるなんて、料理人生の中で今が一番楽しいですよ。
    料理人になっていなかったら?犬か猫か(笑)料理人以外考えられない。他の仕事は今まで一度も考えたことがないです。




    龍眉虎ノ尾
    東京都港区西麻布4-2-10
    【ランチ】11:30 – 15:00
    【ディナー】18:00 – 23:00
    32席 ※カウンター10席、テーブル12席、個室10席



     
    ※掲載内容は2017年12月15日現在の情報となります。

  • Vol.13 森雄一郎



     

    15年前、今は“奥渋谷”と呼ばれている場所に1950年代の“古きよきアメリカ”をコンセプトにしたダイナー「デモデクイーン」がオープンした。この店はうす暗い路地の一角にあり、どこか怪しげな雰囲気をただよわせていた。明け方近くまで渋谷の若者がたむろし、現在、テレビや映画で活躍する役者達もよく来ていた。その「デモデクイーン」は、2013年に建物老朽化の為、とりこわしとなり、1年半後、歩いて数10秒の場所にリニューアルオープンする。旧「デモデクイーン」立ち上げからの11年間と、新生「デモデクイーン」を現在まで任されているのが森雄一郎(もりゆういちろう)だ。若者の街として歴史を刻み、今も変貌し続ける渋谷で長年働く森にインタビューした。



    森雄一郎

    洋食事業部「デモデクイーン」店長兼、料理長
    森雄一郎(42歳)
    佐賀県出身、幼少期から東京在住。拓殖大学の学生時代、1カ月間アメリカへ旅行し、出会ったハンバーガーと南部料理に刺激を受ける。卒業後、様々な飲食店で働くが、2002年、旧「デモデクイーン」の立ち上げと同時に当社に入社。閉店する2013年まで従事する。いったん家庭の事情で退職するが、2014年「デモデクイーン」の立ち上げを任され復帰。現在、店長兼料理長を務める。
     


     

    福生の街が原点。衝撃を受けた店が「デモデヘブン」

    幼少期は、泣き虫ってよく言われていました。小、中は、野球に夢中で、高校は帰宅部だったので、お寿司屋でアルバイト。最初に働いた場所は飲食店でしたね。ちなみに、小学校の卒業文集で将来の夢、“コックさん”って書きました。シェフとか料理長ではなく、コックさん。高校生の時はレコード集めが趣味で、よく午後の授業をさぼって西新宿にレコードをあさりに行っていました。レコードは400枚くらい持っていますよ。店舗でも流す音楽や音量は色々と考えています。音楽はTPOで変えるべき。同じ毎日なんてないのに、毎朝同じ時間に同じ曲が流れているのはおかしいと思いませんか?ランチ、カフェ、ディナーと流す音楽は変更しています。
    「デモデクイーン」のオープンニング募集を見たのは、福生にある「デモデヘブン」で。高校、大学時代は頻繁に福生で遊んでいました。あの頃の“福生”は、ちょっと流行り始めたアメリカンカジュアルやら古着やら、とにかく魅力的な街で、「デモデヘブン」にもよく行っていました。昔、テラスのウッドデッキ部分に小屋が立っていて、黒人の方がやっているバーがあったんですよ。店内は真っ暗だから、その方の目だけがギョロっと見えている独特の感じのお店。雰囲気ありましたね。衝撃的だった。そんな「デモデヘブン」で募集している求人に興味がないわけがなく。オープニングスタッフとして働きたいと思いました。

    食へのこだわりは、母が料理上手だったから

    私の家は、父がお酒飲みで、まずはビール、日本酒の熱燗、最後にウィスキーでしめる、母はお酒に合った料理を突き出しから出していく。そんな食卓を小さい頃から見ていたので、お酒とアテに対しての執着心は他の人とは違う感覚だと思います。母は普通の主婦でしたが、親戚からも一目おかれるくらい料理上手。朝食は毎朝、旨い味噌汁が食卓に並んでいました。今では、出汁からとって毎朝365日!味噌汁を作って飲んでいます。イメージと違いますか笑?味噌汁を飲まないと目が覚めないんですよ。最近では本で読んだ大和芋をすりおろしたものを入れて食べています。出汁は母と同じく昆布とかつおぶしから。店舗でもゼロから作れるものはこだわって手作りをしています。ランチドレッシングもその時々で味を変えていますし、他5種類程のドレッシング、ハンバーグソース、ステーキソース、サルサソース、ソース類は全て手作り。いつか、本場のようなドラム缶と薪を使ったスモークピットで、巨大な豚肉のスペアリブの燻製を手作りしたいですね。

    お酒の面白さをお客様、スタッフにも楽しんで欲しい

    食べたい料理を先に決めるのではなく、まず飲みたいお酒を決めてから料理を選ぶ。お酒に対してのこだわりは父の影響ですね。最近はもっぱら自然派ワイン。白濁したワインを飲んでから興味を持ち、今勉強しています。店舗のアルコールメニューは、最初は種類が少なかったのですが、現在は274種類。お客様に対してもですが、スタッフにもこんなにお酒の種類があることを知ってもらい、飲んで、味わって、楽しく売ってほしい。だから味が分かるように片っ端から飲むように指導しています。ただ、どうしても自分の好きな味にしか辿りつかないので、もったいないしつまらない。スタッフのレベルアップは私の一番のミッションです。
    オリンピックが近づいてきて、代々木体育館も近くにあり、外国のお客様が更に増えてきました。新たな試みとして日本酒“サケ”と焼酎のソーダ割りを、黒板に記載しておすすめしています。“サケ”の「獺祭(だっさい)」はメジャーですからね、外国の方に喜ばれてよく売れました。今の時期は佐賀県の「七田(しちだ)」の純米七割五分磨きひやおろし。焼酎は芋と麦を1種類ずつ。今後も動向を見て増やしていきたいと思います。

    自分の当たり前をぶれることなくスタッフに当たり前に伝える

    調理場スタッフが勉強する場として“まかない”を作ることは大変重要なことです。当番制でルールはなし。“まかない”で使用した食材の値段を把握し、一人前いくらで作りました、と原価計算のしくみをこの機会にわかってほしい。私は“まかない”作り大好きです。和食が多いかな。例えばお出汁の中に色々な食材をいれてぐつぐつ煮る。1日目は塩か醤油にして、味が染みた二日目は味噌味にする。主婦みたいですね(笑)
    渋谷で成功するためには、若者目線でものを考えなければならないことはマストですが、奥渋谷が流行り、普段渋谷に来ない人達が集まりはじめ、今の時代の難しさを感じています。旧「デモデダイナー」時代、若者は大人達が飲んでいるのを見て、こんなに刺激的な世界があるんだ、かっこいいなと思い、求められている世界観がそこにはあった。その空間が今も作れるかどうかにかかっている気がします。そのためには料理やお酒はもちろんですが、スタッフ、つまり“人”だと思うんです。当たり前のことを当たり前にこなし、当たり前のようにお客様とコミュニケーションがとれるスタッフを育てたい。「デモデクイーン」の世界感を体現し作り続けられる人を、当たり前に育てることが、私のここでやるべきことだと思っています。




    デモデクイーン
    東京都渋谷区宇田川町37-35
    【日~木】11:30~24:00(L.O.23:00)
    【金、土】12:00~27:00(L.O.26:00)
    117席 (屋上テラス、ソファ席あり)



     
    ※掲載内容は2017年10月13日現在の情報となります。

  • Vol.12 中村寿



     

    鰻の世界は老舗が多いが、昨今は諸事情で店を畳むところも見聞きする。新規参入はなおさら厳しいなかで、当社はあえて2015年に「瓢六亭」(ひょうろくてい)を立ち上げた。現在、当社の鰻専門店は東京、金沢など7店舗。関西式の地焼き鰻の店として徐々に認知されてきた。地焼き鰻を出すにあたり、欠かせない存在だったのが中村寿(なかむらひさし)だ。最初に鰻を裂いたのは小学校5年生の時だという中村は、鰻職人歴37年。長年、鰻と向き合ってきた中村にインタビューした。



    Vol.12 中村寿

    和食事業部 「瓢六亭 南平台」
    中村寿(53歳)
    山梨県出身、鰻職人。実家は、現在山梨市で「七福神」という鰻屋を営む。
    高校卒業後、鰻も扱う日本料理店で働き、包丁のいろはを学ぶ。鰻の修業をしたのは名古屋にある「うなぎ 日本料理 名古屋なまずや」。親戚であったこともあり幼少期よりよく店に出入りをしていた。20才の時に父親と山梨市で鰻屋「七福神」を開店。地元に愛される鰻屋として繁盛させる。「瓢六亭」1号店である甲府の開店に興味を持ち、51歳で当社に入社。各店の料理人の指導にあたる。現在、「瓢六亭 南平台」にて鰻職人として従事する。
     


     

    注文が入ってから、活きの良い鰻をさばき、焼く。

    瓢六亭では、国産太鰻の2Pサイズ(1本500g)もしくは2.5P(400g)を中心に提供しています。9月の産地は宮崎県産、天然は長良川産など。美味しい蒲焼きをお客様に届けるには、とにかく、裂きたて、焼きたて。注文が入ってから、活鰻を1本6秒程で裂き、大きさにもよりますが、焼きと合わせて20分程でお客様へお出しします。鰻を裂く包丁は全国の地名が入った「関東型」「名古屋型」「京都型」「大阪型」「九州型」と5種類あるのですが、物心がついた時から使っているのは名古屋型です。早く裂き早く提供できるように、包丁鍛冶屋に特注で通常のものより鋭角に作ってもらっています。裂いたら次は串打ち。関東式は竹串で蒸しますが、関西式は金串を使用。皮と身の間の限りなく身に近い部分へ扇形に5本打ち、鰻が丸まらないようにあて串をして焼いていく。打つポイントのズレや曲がって打つと、身が崩れたり鰻が変形してしまいます。“皮と身の間の限りなく身に近い部分”へ平行に打つことは、職人でも難しく「串打ち3年」といわれる所以です。

    美味しいものを知って、美味しいものを作る

    初めて料理を作ったのは幼稚園の時でした。父の料理姿を見ていましたし、料理は生活の一部でした。外食業界で働くつもりはなかったのですが、父に一緒に店をやろうと言われ、決心しました。高校生の時です。父は本当に料理が好きだった。卒業後、地元の料理店で働き始めたのも、まずは包丁に慣れるため。その後名古屋にある「うなぎ 日本料理 名古屋なまずや」で修業をし、無事に鰻屋を開店しました。この時期は鰻だけでなく食に対して貪欲でした。食べたい物は勉強のためと何でも食べ、あそこに美味しいものがあると言われれば、北海道でもどこへでも飛んでいく。店で使用する醤油や味噌も、自分の鰻に合うものを取り寄せ、探し歩く。とにかく鰻だけではなく、美味しいものを食べよう知ろうと思っていた時期でした。美味しいものを知らないとその味は出せない。当時、鰻には絶対的な自信がありましたが(笑)、店に一緒に来店した鰻嫌いのお客様にも美味しいものを提供しようと思い、イタリアンやフレンチも学びました。食に対してやれることは何でもやりたかった。今思えば20代30代は、一生懸命働きお金も使い、味を知り、人間関係を築き、社会勉強をした人生の中で一番情熱があった頃でした。

    長年鰻を焼いている親父には、一生勝てない

    物心がついた時から鰻が近くにありました。父と遊んでいた時、暇だったらやってみるかと言われ、鰻を初めて裂いたのが小学校5年生の時。意外と上手くさばけたし、楽しかった。学生の時、弁当をあけると鰻の蒲焼きが入っていたこともあった。鰻重の弁当にがっかりしていると、友達はすごい!と驚き、弁当を交換してくれた。私は友達の“パン”が食べたかったのです。今思うと父に申し訳ないのですが、それくらい鰻は私にとって高価なものではなく身近なものでした。鰻屋を開店し、意見の相違から父と衝突することも増えました。若い頃は反発した時期もあった。それでも鰻から離れることがなかったのは父の背中を見てきたから。77歳になった父は今でも鰻職人として店に立ち、自分のお客様のために鰻を焼いています。

    こだわり、探究心、それが極めるということ

    長年培ってきた経験で、鰻を触った時の皮の感覚、見た目の色つやで“味”が想像できます。裂く時の包丁のすべりで、脂ののりや身のしまり方、肉質もわかる。昔から思い立ったら即行動してきました。例えば某ファミリーレストランの厨房のオペレーションに興味があった時は、どうして素人に料理が作れるのかと知りたくなり、夜中にバイトに行ってみた。もともと追求したくなる性格。誰に似たのでしょうか。
    焼き一生。鰻を上手に焼けるかどうかは、感性と経験です。肌から伝わって感じる炭の熱とか、裂いた時の感覚で、どのタイミングで返せばよいか、体に覚えさせる。鰻は一匹一匹性格が違います。使う備長炭も火力調整が難しく生き物のよう。その上で全て同じように美味しく焼き上げるには一生かかる。私も9割くらいまではほぼ同じように焼けますが、そこから先、本当に納得した鰻を焼けたのは年に数回。と思って焼き台に立っています。満足したらそこで終わり。これからも鰻を焼き続けます。



    瓢六亭 南平台


     

    瓢六亭 南平台
    東京都渋谷区南平台町17-13
    【平日】
    11:30 – 15:00(L.O.14:00)
    17:30 – 23:00(L.O.22:00)※ドリンクL.O.22:30
    【土日祝】
    11:30 – 22:00(L.O.21:00)※ドリンクL.O.21:30
    70席



     
    ※掲載内容は2017年9月12日現在の情報となります。

  • Vol.11 猪亦剛聡



     

    作家の野地秩嘉さんが著した『サービスの達人たち 究極のおもてなし』(新潮文庫)(以下「サービスの達人たち」)に当社のひとりの社員が紹介されている。「もつ焼ウッチャン新宿思い出横丁」を行列のできる人気店にし、渋谷・百軒店にもつ焼ウッチャン2号店を立ち上げた、猪亦剛聡(いのまたたけあき)だ。本の中では、第五章“「客を母と思え」もつ焼き屋の流儀”に猪亦は登場する。猪亦が考える“サービス”について、客層も広さも全く異なる新店でのおもてなしとは何か、猪亦にインタビューした。




    和食事業部 「もつ焼ウッチャン渋谷道玄坂」店長
    猪亦剛聡(37歳)
    関西出身、辻調理師専門学校で料理を学び、卒業後、関西のイタリアンレストランに入社する。9年前に上京し、代官山のカフェで料理人やホールとして働く。その時に知り合った“もつ焼ウッチャン”を立ち上げた内田氏から誘われ、当社に入社。「もつ焼ウッチャン新宿思い出横丁」で働きはじめる。内田氏の独立と同時に「もつ焼ウッチャン新宿思い出横丁」を任され、店長に昇格。行列ができる人気店にした後、半年の充電期間を経て、2017年3月“もつ焼ウッチャン渋谷道玄坂”を立ち上げ、現在、同店の店長を務める。


     

    全責任をとるので、自分の「ウッチャン」を作ろうと思った

    『サービスの達人たち』に取り上げていただいた経緯ですが、最初にまかない料理の取材があり、その後、週刊新潮の記事で紹介いただき、文庫になりました。自分が思う仕事像の話をして、それを聞いて同意してくれる人がいる。野地さんとの出会いは率直に嬉しかったです。発売後は売上も伸びましたが、思い続けて実行してきた事が形になり、信念をもって続けていれば結果がついてくるという姿をスタッフに見せることもでき、良い作用でした。以前の「ウッチャン」は、内田さんの目指しているウッチャン像がありました。コの字カウンターの中に名物頑固おやじがいて、笑わなく、ものすごく怖いが、期待を裏切らず美味しいものだけを出す。当時は少し強気な接客だったかもしれません。しかし私がウッチャンを引き継いだのは、見た目に貫録もない34歳の時。同じような頑固おやじを演じていてもお客様には伝わりません。このお店に合う自分なりのウッチャンを作っていこうと思いました。

    ウッチャンは「人」が商品

    串焼きは、毎日入荷する内臓で200本ちょっと仕込んでいます。レバーやチレは50g、その他は35gで統一。オープン前までひたすら串打ち。味の決め手は、内臓の下処理方法、焼き場の炭の扱い方、仕込みの串打ちの仕方です。要するに丁寧な仕事をすること。実は串打ちの時点で味は決まっています。料理人には当たり前のことですが、何も考えないで刺していると、でこぼこになり均等に焼けず、ムラができるためです。しかし最大の隠し味は、お客様への提供の仕方です。例えば少しだけ不格好な串だったとしても、提供の仕方次第でお客様は満足します。だから、「ウッチャン」のウリは“人”。焼き方や打ち方は練習すればいくらでも上手になりますが、丁寧な仕込みや美味しく食べてもらいたいという気持ちは、心がないとできません。決して高価な食材を仕入れているわけでもないので価値には限界があります。焼き加減や味付け、お店の雰囲気の好みも人それぞれ、80%止まりの満足感を120%までに引き上げるのは人の力だと思います。

    異色のウッチャンスピンオフ

    最初に渋谷道玄坂の店舗で2号店目の話をいただいた時、ウッチャンぽいことはできるが、「ウッチャン」はできないと感じました。コの字のカウンターだけではなく、2階どころか4階まである大箱。ウッチャンを正確に表現できるか分からないところで、あえてやらなくても良いのではと悩みました。現在オープンして5カ月が経ちます。新宿ではやれなかったことが渋谷では挑戦できる。売上も含めて課題は多いのですが、「もつ焼ウッチャン渋谷道玄坂」は無限の可能性があります。ジビエや自家製ソーセージを提供しようと、東京・新橋「レストランアサクラ」の浅倉さん(洋食部門 総料理長)のところへ勉強にも行きました。2階のカウンターを上手く使って“流し”を呼ぶ週末イベントも考えています。新宿と同じウッチャンを目指さなくても、渋谷だけのウッチャンを表現したい。新宿は、海外からもお客様が増え、支えてくれていた常連さんが入店できなくなっています。本当に申し訳ない。しかし渋谷だと広さもありまだゆっくり座って飲めるので、新宿とすみわけてうまく取りこめたらと思います。

    ウッチャンには思いやりある「普通」がしっくりはまる

    「ウッチャン」のスタッフは私より年上で、知識や経験もあり、より良いサービスをしたいと、はりきってしまいがちです。大変有難いことですが、まずは力を抜いて本人に何よりも接客を楽しんでほしい。例えば、自分の友達が店に来たとしたら、誰でも「お仕事お疲れ様です。疲れた顔してるな?今日はもう終わり?」と声をかけて飲み物を自然に差し出すと思います。さらっと当たり前にコミュニケーションをとるはずです。それはサービスとも接客とも異なります。そんな大切な人と接する時、労わる時の「普通」を体現したい。ウッチャンでは接客のマニュアルは必要ないし作るつもりもありません。もちろん基本的なオペーレーションは私がやってみせる、やらせてみせて指摘するという流れはありますが、大切な人の労わり方は全員異なるから面白い。相手がどう受け取るか自分で考え、本人の感覚で接してほしい。大切な人を喜ばせたい、そして何よりも自分が喜びたい、それがウッチャンの「普通」=サービスです。



    もつ焼ウッチャン 渋谷道玄坂

    東京都渋谷区道玄坂2-18-14 日美ビル
    16:00 – 23:00(L.O.22:30)
    25席



     
    ※掲載内容は2017年8月9日現在の情報となります。

  • Vol.10 関澤草介



     

    際コーポレーションで「万豚記」や「蒼龍唐玉堂」など、麺飯を中心とするカジュアル中国料理のブランド50店舗を統括するのが関澤草介だ。関澤が部門のリーダーになって1年半だが、離職する社員が減ってきている。それはなぜか。外食業界全体の課題でもある人材不足に関して、どう取り組んでいるのかインタビューした。




    中国料理事業部 執行役員 部長
    関澤草介(44歳)
    大学卒業後、父が働く飲食店での仕事に興味を持つ。その頃、福生にある“デモデヘブン”や“韮菜万頭”などの飲食店らしからぬ内装や選ぶ小物ひとつひとつに感銘を受け、22歳で当社へ入社する。他の飲食店を見てみたいといったん退職するが、様々な飲食店で働くなか、食で勝負するならやはり「際コーポレーション」でと、32歳の時に再入社。店長、エリアマネージャーを経て、現在、中国料理事業部・麺飯部門の統括を務める。


     

    人材不足を悩むのではなく、働きたい人が集まってくるお店にすれば良い

    人材不足といっても、働きたい人が集まってくるお店もたくさんあります。働きやすい環境を作りそれを保つことができれば、自然と人材は集まってきます。その点では私は現状の状態を人材不足と思っていないのかもしれません。とはいえ、退職者はもちろん出てきます。“去る者は追わず”という言葉もありますが、私の根本的な考えに “去る者は去らせない”という信念があります。それは、退職の申し出があった時に「はい、やめちゃえよ」とは絶対に言わないという事です。今の時代、人それぞれ働くスタンスが異なり、決められた枠の中で働こうとすると苦しくなる人もいます。しかし、どんな人でも必ず得意な事があり、うまく働ける方法があるはず。まずは退職したい理由をしっかりと聞いて受け止めることからはじめます。

    売上がとれる店長は、従業員の働きやすい環境作りに秀でている

    現在の私のミッションは、大きく分けると5つです。原価を下げる(利益率を上げる)、お店を清潔にする、赤字店舗をなくす、退職者をなくす、働きやすい職場を作る。
    改善するための具体的な指導はしていますが、全てのミッションをクリアするために共通していえることは、まず店長と顔をつき合わせて直接話をすることです。店舗に行くと、売れなくなった店は、空気がどんよりとしています。店の雰囲気は店長で決まり、店の雰囲気で売上も決まります。店長が異動で交代して売上が伸びた良い例も数多くあります。

    能力を発揮できる場所を作ってあげる事が、今の一番のミッション

    店長、スタッフ共にステップアップしない仕事はつまらない。少しずつでもできることが増えるように長所を見つけ得意分野を与えることができたら、仕事が楽しくなるはずです。長所を見つける方法は、まずは一緒に働いてみること。何が得意か不得意か、どのような場所だったら能力が発揮できるか考えながら一緒に働きます。
    働きやすい環境を作ることが、実は売上と利益につながります。極端な例ですが、例えば少しくらい料理が口に合わなくても、元気よく働き明るく迎えてくれるスタッフのお店にまた行きたいとお客様は考えます。そういうお店のスタッフはとても働きやすい環境にいるのでしょう。そうでなければ笑顔で接客はできません。スタッフのモチベーションをあげるためにも働きやすい環境作りが最優先です。

    既存店は、立ち止まらずにお客様に伝わる“進化”を続けたい。

    東京・池尻大橋にある“宮崎焼酎酒場ひなた”で和食部門の方々と一緒に仕事をする機会がありました。当社では異なる料理ジャンルの料理人が一緒に店に立つことはないため、貴重な経験でした。中華にない包丁の使い方、調理方法、塩のふり方、揚げ物の揚げ方、刺身の切り方、盛り付け方など、異なる事もあり、大変勉強になりました。和食の方々は会社員の前に“料理人”で、季節の食材に対しての向き合い方や姿勢に色々と気づかされました。麺飯業態では統一されたレシピ遵守であったり商業施設に入っていたりとルールもあり、業務上自由にはできませんが、食材に対しての姿勢に関しては活かしていきたいと思います。
    今後の目標ですが、ひとつは自分の部門で、新たな業態やブランドを立ち上げること、既存店に関しては進化し続けたいと考えています。「万豚記」に関しては看板人気メニューの“豚バラ青菜炒飯”や“黒胡麻担々麺”以上のヒット商品を生みだしたいですし、たとえば豚のあらゆる部位を料理し尽くすメニューなども提供していきたい。全てのことに対して立ち止まらずに進化し続け、お客様にもその進化が伝わる営業をしていきたいと考えています。今回は和食の方と一緒に仕事をしましたが、際では様々なジャンルの一流料理人がいることが最大の会社の強みです。その知恵と能力を集結させて、いつか部門の垣根を越えた面白いことを実現させたいと思います。



    万豚記 市ヶ谷

    東京都千代田区九段南4-6-8 YSビル1F
    【月-金】11:30 – 23:00(L.O.22:30)
    【土日祝】11:30 – 22:30(L.O.22:00)
    43席



     
    ※掲載内容は2017年7月11日現在の情報となります。

  • Vol.9 佐川浩明

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    際コーポレーションに入社する前は設計事務所に勤務し、賑わいをなくした商店街を再生する仕事をしていたという、担担麺専門店『蒼龍唐玉堂 六本木』の店長・佐川浩明。入社して18年目になる現在の仕事について、外国人スタッフの活用に焦点をあてインタビューしました。



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    蒼龍唐玉堂 六本木 店長
    佐川浩明(52歳)
    大学卒業後、専門学校で設計を学び、設計事務所にて環境整備事業に従事。商店街の再計画を行い、数々の商店街を復活させた。その後、際コーポレーションに転職し、数々の麺飯店を経験し、現在、『蒼龍唐玉堂 六本木』の店長を務める。


     

    13席しかない中華料理店で月間1,500万円の売上

    「際」に入社したのは今から18年前です。それまでは環境整備を行う設計事務所で働いていました。そこでは、近隣に大型スーパーやショッピングモールなどができて売り上げが落ち、活気がなくなってしまった商店街を、国や町を巻き込んで再計画をする事業を担当していました。谷中銀座商店街のような有名な商店街を手掛けるなどやりがいはあったのですが、いくつか案件を手がけるうちに、商店街という大きな単位で動くより、商店街にあるひとつのお店を行列ができるほど繁盛させて人の流れを作った方が、本当の意味で商店街が元気になるということに気が付きました。
    そこで転職したのが、当時まだ37軒しか店舗のなかった「際」です。面接に行った翌日には、中島社長が車で迎えに来てくれて、そのまま運転を変わると当時の福生や八王子の人気店を1日かけて見て回りました。入社してからというもの数えきれないくらい「際」のお店で働きましたが、今でも印象に残っているのが、今はなき八王子の『万豚記』と『紅虎餃子房』です。万豚記はカウンター13席しかなかったのですが、1カ月で平均して1500万円を売り上げていました。また、紅虎餃子房も1000万円の売り上げがあり、繁盛するお店を肌で体験できたのは貴重な経験でした。一方で、お客さんがなかなか来ない拝島のラーメン屋を一人で回していたこともありました。それまでずっと料理人がいて、ホールを担当していたのですが、このお店では、一から十まですべて自分でやらなくてはいけません。毎日お店を閉めた後に寸胴に残ったラーメンのスープを捨てて、底にたまった脂の「おり」を洗う大変さを経験し、今まで厨房の人たちにどれだけお世話になっていたか、皆でお店を回すことのありがたさを痛感しました。

    好立地だけに、人材不足が顕著な六本木で試行錯誤

    現在、店長を務めている『蒼龍唐玉堂 六本木』は、地下鉄「六本木駅」から徒歩2分の場所にあります。立地に恵まれたことと、担担麺に特化したコンセプトがよかったのか、オープンしてから平日は朝7時まで、土日は朝5時までたえずお客さんがくるので、売り上げも好調です。ただ、近くに複合施設六本木ヒルズやミッドタウンがあることから、スタッフの時給は自然と高くなってしまいます。日本人で日本語が話せるというだけで、未経験の人でも1350円くらいはもらえるのではないでしょうか?うちはそんなには出せません。そこで考えたのは、外国人スタッフを採用することです。思えば入社してからずっと海外の人たちと働いてきました。はじめは、文化や価値観が違う人と働くことは、自分が元来不器用で思うように動けないことも相まって、ストレスでかなり体重が減りました。それでもこの18年間で、どうすれば外国人スタッフとうまく働けるのか自分なりに会得し、今はうまくお店が回るようになりました。

    「ケンカのあとはフォローを入れる」「それぞれの働き方を容認する」

    今では一人っ子政策から中国人の学生アルバイトがぐんと減ってしまいましたが、当時は多くの中国人が働いていました。気性が荒い人が少なくないので、ケンカっ早い半面、次の瞬間には笑顔で話すなんてことがしょっちゅうありました。そこで私が学んだことは、顔をひっぱたかれるくらいの言い合いをしても、根に持たないでフォローを入れることです。また、現在採用が増えているベトナム人やタイ人にも共通することなのですが、空いた時間に無理に仕事を詰め込まず、しっかりと休憩時間をとります。その分、オンになったときの集中力が違います。このような性質を理解して彼らに仕事を任せたり、シフトを工夫して組むようになってから、私について来てくれるようになり、辞めないで一人一人が長く働くようになりました。
    とはいえ、いろいろ工夫を重ねても、ここ数年の人材不足、時給の高騰は厳しい現実です。これは六本木に限らずどこの日本の飲食店も同じだと思います。そこで、優秀な人材を確保するために、飲食の経営を学んで祖国に帰ったら自分の店を持ちたい人だったら、日本語がひとことも話せない人でも採用しています。はじめは指さしでメニューをとっていた人でも、少しずつ日本語を覚えて、接客ができるようになるものです。厨房でも日本語で話しながらボディランゲージでもコミュニケーションを密にとって、料理の一から十まで教えます。まだまだ、日本人と比べて衛生感覚が異なる、接客が無愛想など課題はたくさんありますが、これからもっと増えていく海外人材を生かすべく努力し続けます。また、時代の変化とともに、正社員やフルタイムにこだわらず、働きたいと考えている主婦やフリーターの人も多くなりました。そのニーズに合わせて、週に1回、数時間でも働きたいという人を採用しています。一人でも多くの人に一日でも長く働いてもらってお店の環境を整え、来てくださるお客様においしかったと満足してもらいたい、そんな思いで日々精進しています。



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    蒼龍唐玉堂 六本木

    東京都港区六本木7-17-16 米久ビル1F
    03-3470-0451
    【月-土】11:00 – 翌7:00
    【日】11:00 – 翌5:00
    定休:無休
    35席
    15:00~喫煙可



     
    ※掲載内容は2016年11月25日現在の情報となります。

  • Vol.8 岩倉一紀

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    今回インタビューしたのは、際コーポレーション(以下、際)の制作・施工部門「キワエンジニアリング株式会社」の岩倉一紀です。同社は通称「工事部」と呼ばれ、際の全国の店舗の壁画制作やエイジング塗装など、和洋中数ある店づくりに欠かせない仕事を担っています。岩倉は、会社設立から5年後の1995年に入社以来、際の「顔」を作り続けてきました。今では外部からの依頼も多く、直近では京都の「本家西尾八ツ橋」の看板を手掛けるなど、全国を飛び回っています。



    岩倉一紀

    キワエンジニアリング株式会社
    岩倉一紀(44歳)
    1995年、際コーポレーションに入社。料理人やマネージャーを歴任したのち「工事部」へ異動。際発祥の地である福生で『DEMODE HEAVEN』や『DEMODE DINER』『韮菜万頭』『万豚記』などの施工を手掛ける。2007年からは壁画や看板制作、エイジング塗装、家具什器制作を専門とした関連会社「キワエンジニアリング株式会社」の営業・壁画部門のリーダーを務める。


     

    エイジングのプロとして多くの作品を送り出す

    際コーポレーションの店づくりといえば、特徴的なのが「エイジング※」と呼ばれる塗装の技術です。最近では店舗以外にホテルや旅館などの施工もあるので、エイジング塗装ばかりしているわけではないですが、創業当時は数多く手がけました。20年前の当時は、左官屋などの職人さん達は、ピシッと綺麗に仕上げることが正解と考える人が当たり前の世界。ですから、社長が求める「北京の街角にあるような古びた中華屋さん」を再現するとなると、自分たちでやるしかなかったのです。おかげで、キワエンジニアリングのエイジング塗装の歴史は長く、多くの手法を身に着けることができました。現在では新しい家具をアンティーク風に仕上げることが、一時的な流行ではなくインテリアの一つとして定着したということもあり、外部のお客様からも注文をいただいております。

    一から作り上げた伝説の店、広尾「胡同四合坊」

    いちばん印象に残っている現場は、今はなき広尾の胡同四合坊(フートンスーフォーファン)です。今から20年くらい前に現在の広尾高校の近くにある4棟のつらなる古い家を10年間の契約で借りて、中華料理屋に改装したんです。このお店は外に北京ダックを吊るすような大衆的な中華料理屋である一方、音楽界などの著名な文化人が常連客として通うような、モダンでアーティスティックな一面も持つお店でした。与えられた工事期間はたったの1カ月。工事部の10人で、内装だけでなくファサードや外構まで、ガス・水道・電気以外のすべての工事を行いました。朝8時から夜11時まで全力で力仕事をした後、居酒屋で飲んだら、工事現場に戻って寝袋で雑魚寝してまた朝から働く日々。休みは文字通り1日もありませんでしたが、毎日みんなで創り上げることが楽しくて仕方ありませんでした。契約が終わるまで繁盛したこのお店に、立ち上げから関われたことは誇りであり、私の原点でもあります。「あれ以上大変な工事はない」と思うと、普段の徹夜の作業も苦にはなりません。

    独自の世界観を表現する者として

    「際」は、時代の変化に柔軟に対応しながらも独自の世界観を作り上げてきました。これからどんなに規模が大きい会社になろうとも、「際」の工事部としての表現者であることを念頭に置いて、既製品にはない、他社には作れない唯一無二の作品を目指しています。そのためにも、仕事の仕上がりに「これくらいでいいかと妥協する」「時間になったから仕事は終わり」ということはありえません。どんなに時間をかけて丁寧に作ったものでも、結果によっては潔く諦めて一から作り直すくらいの心意気が必要です。
    例えば、5日間かけて、5人のスタッフで壁画を描き上げたとしても、施工主様が「良し」としないなら、その壁画は完成したとは言えません。どんなに悔しくとも、自分たちのアイディアの方が正しいと思っていても、相手の要望を満たせなかった自己の未熟さを受け入れること、そして早々に気持ちを切り替えて、新しい壁画に取り掛かれるようなタフな体力と精神が必要になってきます。つらい決断になろうとも、よい作品を作るためにはそれくらいの犠牲は当たり前なのです。

    「際」の心を受け継ぐ

    最後に忘れてはいけないのは、自分の職業や作品、会社を誇りに持ち、道具やスタッフの仲間を大切にすること。これはまだ「際」が数店舗しかなかった頃、毎日社長の横で働いて、学んだことでもあります。初心を忘れずにこれからも精進したいと思います。

    ※エイジング塗装とは
    特殊塗装のひとつで、主には、アンティーク家具のように、長い年月が経過してついた傷や汚れ、ひび割れなどを、塗料などを使って表現する技術。例えば白い壁をヤニやホコリなどで汚れたようなペイントを施したり、木製の扉に塗料を重ね塗りしてひび割れたような風合いに仕上げます。



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    瑞穂FACTORY

    〒190-1202
    東京都西多摩郡瑞穂町駒形富士山127
    TEL 042-557-7967
    FAX 042-557-7990



     
    ※掲載内容は2016年10月5日現在の情報となります。

  • Vol.7 船倉卓磨



     

    赤坂一ツ木通りを入った裏路地に中国料理店「月居げっきょ」があります。この店の料理長は船倉卓磨。時菜(季節ごとの食材)、伝統菜(中国に伝わる基本的料理)そして家常菜(それぞれの家庭で食する家庭)を「月居」の料理として追求し続ける日常を追いました。




    「月居」料理長
    船倉卓磨(38歳)
    高校を卒業して中国料理店で料理人のアルバイトを経験後、21歳から「赤坂離宮」で修業を積み、26歳で際に入社。様々な料理店の厨房を経験した後、2010年から「月居 菜根譚」の料理長を務める。


     

    「赤坂離宮」で料理人としてスタート

    「赤坂離宮」の譚彦彬さんの元で、広東料理の修業をしていました。中国料理は厨房内で役割が細かく分かれており、「前菜」や「焼き物」を担当する人、まな板で食材を切る係の「板」、中華鍋で調理する「鍋」、小龍包などの点心を作る「点心師」などがあります。私はというと、見習いだったので「打荷だぼ」という鍋のアシスタントを務めた後は、「板」を担当していました。「赤坂離宮」では一度「鍋」についたら、一生「鍋」を務めるというシステムで、ほかの担当になることはありません。大きな店ではどこもそういう仕組みで、ひとつの分野を専門的に極められるという利点がありました。

    北京を旅したことが人生の転機に

    前職に在籍中、休暇をとって中国本土を旅しました。北京の町場にある大衆店の料理。これを食べたときに今まで味わったことのないすさまじいエネルギーを感じました。どこでにもある野菜や肉が力強く鍋の中で躍り、乱雑に盛られたそれらの料理は、日本では出会ったことのない力強いものでした。それから何軒も何軒も一日中、店を食べ歩きました。中国ではまた、暑いときは瓜で体を冷やし、寒いときは羊肉で体を温めるといった、季節と共に歩む「医食同源」の生活を垣間見ることができました。感動した私は帰国後しばらくして、際コーポレーションで北京料理を学ぶことに。広東料理とは180度方向性の違う北京の家庭料理や郷土料理を、言葉と一緒に一から学ぶ必要があり、最初はとても苦労しました。また、大きな店から小規模の店に移ったことで、一から十まですべて自分でこなさなければなりませんでした。大変でしたが、それがとても重要なことだと今は身をもって思います。

    献立はひと月ごとのコースのみ

    この店のテーマは「食在十二暦」です。日本では季節ごと、月ごとに食材が変わります。「月居」では、生産者の方々から届くもの、築地で買ってくるもので1年12か月、月ごとに献立を作っていて、コースのみの提供です。内容は日によりますが、前菜から始まって5品ほどの野菜、肉、魚の料理のあと、しめの食事と続きます。最近は鰻を出すことも増えました。鰻鍋(うなべ)をお出しするときは、壺に入れた鰻に紹興酒をかけて酔わせ、眠った鰻を調理する工程をお見せするなどのプレゼンテーションもおこなっています。食材を吟味することだけでなく、食べることへのお客様の期待感、楽しさ、驚き、感性を刺激できる時間を作れたらと思います。

    滋養ある食材から力をもらう料理

    旬の食材には、その季節を乗り越えるのに必要な栄養素があり、旬の時期にからだに取り入れることで、私たちは自然のエネルギーをもらいます。野菜には野菜、肉には肉、魚には魚の旨みがあり、食材が本来もつ旨みを大切にして、余計な調味料を加えず素材の力で料理をするのが「月居」の料理です。いま私が気に入っている料理は、フェンネル、香辛料をたっぷり使った骨付きの羊肉と根菜のスープなのですが、羊を大鍋でぐつぐつ煮て、味つけはシンプルな塩味です。いい食材を見つけることは本当に重要で、私も年に一度は中国本土に出向き、食材の調達をしたいと思っています。毎日通う築地は、私にとって一生の学校です。これから少し遠くなりますが、豊洲にも通うつもりです。



    菜根譚「月居」 赤坂

    東京都港区赤坂5-1-30
    ランチ11:30 – 15:00(L.O.14:30)
    ディナー17:00 – 22:30(L.O.21:30)
    定休:日・祝
    62席
    個室のみ喫煙可



     
    ※掲載内容は2016年8月23日現在の情報となります。

  • Vol.6 岡島直樹

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    際コーポレーション(以下「際」)の接客・サービスにこの人アリ。丸ビルにある「カサブランカシルク」の支配人・岡島直樹さんは、今年の9月で還暦を迎え飲食業界に携わって41年になるサービスのプロです。その洗練された立ち振る舞いと豊富な知識で、接客されたお客様はたちまち岡島さんのファンになるそう。今回はそんな岡島さんの魅力に迫りました。

    カサブランカシルク
    支配人 岡島直樹(59才)
    高校卒業後、ホテルオークラに1年務めた後、フランスやイタリアに留学。その後ワインアドバイザーやソムリエの資格を取得。飲食店のコンサルティング会社にて多くの飲食店の立ち上げると同時に、当時のワインブームに乗ってワインセミナーを全国で開催。自身のお店も10店舗以上経営した経験を持つ。「際」に2006年入社。さまざまな飲食業態の支配人歴任後、2016年7月からは丸ビルにあるカサブランカシルクの支配人を務める。




     

    Q1.今から40年前の20才の頃に、フランスやイタリアへ留学されたとか?

    高校を卒業してホテルオークラで1年ほどフランス料理の見習いを経験後、フランスに2年半、そのままイタリアに2年間、料理人として修業に行きました。意外に思われるかもしれませんが、40年前のパリは、ちょうど「ヒロタ」のシュークリームや「とらや」の羊羹が開店したばかりで、日本人がパリで働くことはそんなに珍しいことではありませんでした。私が勤めたフランス料理屋も今の「KIHACHI」の創始者熊谷喜八氏がスーシェフでしたし、ホールでは、現在国際ソムリエ協会会長の田崎真也氏がソムリエの資格を勉強しながら働いており、とても刺激的な毎日でした。その後、パリから休暇のたびに遊びに行っていたイタリアへ行くことに。イタリアは、とにかく人が陽気で親切。さらにイタリア料理は、素材を生かしたシンプルな味付けが肌に合っていたので、イタリア料理の料理人に迷わず転身しました。私が行ったのはイタリアの地図でいうとかかとの部分にあたるプーリア州。当時アジア人は一人もいない田舎町で、いつも夜になると銃撃戦の音が聞こえるような危険な一面もありましたが、料理を学ぶのはもちろんイタリアで生活するのが楽しくて仕方なかったです。またフランスやイタリアのラテン系の人たちは、いかに他人を喜ばせるかをいつも考えている思考の持ち主。今思うと私のサービスの原点であり、美味しいワインと出会えたことと同じくらい海外留学の大きな収穫でした。

    Q2.接客・サービスするにあたって、心掛けていることはありますか?

    お客様がその日の夜に「今日のお店は雰囲気のよいところだった」「お酒と料理おいしかった」と余韻に残るようなお店でありたいですね。ただし、その際接客した私の顔を思い出すようでは、サービスの人間として失格だと思っています。私たちは、お客様にとって黒子のような存在であるべきだからです。主役はあくまでお客様であり、お客様が感謝すべき相手は、たとえば接待やデートなら、そのお客様を連れてきたホストの方ですよね。合わせてサービス側は、お店から店舗の営業利益を少しでも増やすことも求められます。お客様にお店のファンになってもらい、1品でも多くの料理を注文してもらうには、自分の中から湧いてくるエネルギーや情熱で動く事が、どんなに高度な接客マニュアルより効果的です。

    Q3.お客様が望むサービス提供するには、どうすればいいでしょうか?

    失礼にあたらないように注意しながら、今日は誰が主役で、どのような目的なのかなど、お客様の服装や振る舞いをよく観察することです。あとは、直接コミュニケーションをとって好きなものを探ります。こればかりは、経験をたくさん積むしかないのですが、お客様の好みの方向性がわかる指標があります。例えばコースの最後の飲み物をお伺いして、コーヒーを選んだ人が食中のワインに悩んでいらっしゃったら、味は重めだけど葡萄の熟成期間が短めのメルローやカベルネ、サンジョベーゼを提案します。紅茶の人には、酸が多めのブルゴーニュ地方の葡萄でつくられたピノノワールやガメイ。カフェラテを好む人には、乳酸発酵が長くて重めのカベルネやボルドー、キャンティ・クラシコのあたりでしょうか。また、これとは正反対のアドバイスになってしまいますが、お客様がオーダーするものを決めつけないことも大切です。

    Q4.お客様の求めているものが予想と違えば、すぐに軌道修正するということでしょうか?

    それももちろんありますが、自分の持っている知識や常識だけで接客しないことです。例えばバッグを含め全身高級ブランドできめている人に、贅沢な食事やワインをすすめてしまうことはあまりしません。衣食住のうち、洋服にこだわりたい人は、食事にお金はかけない人もいらっしゃいます。そういう方は、トレンド感のあるものが好きなので、リーズナブルで誰もが知っているような有名ワインから提案するといいでしょう。また、どんなに長年お世話になっている常連のお客様でも、過去に頂いた名刺にある役職ではなく、お名前でお呼びします。いつ異動などで別の役職なるかわからないからです。さらに、お客様のすべてを覚えていることが良いサービスではないと考えています。いつもお連れしているパートナーではない方と来店されたり、たいそう酔っぱらって粗相をされた場合も、次回いらっしゃったときには「そうでしたっけ?」ととぼけてあげる適度な距離感も大切です。

    Q5.最後に際のサービスについての思いをお聞かせください。

    私は、料理は、お客様のテーブルに届いて初めて料理が完成すると考えています。サービスが料理をベストな状態で運ぶためには、サービス側は料理人に素材や調理方法を聞くのはもちろん、時には、お客様の反応をもとに盛り付けのアドバイスをするなど、頻繁にコミュニケーションをとるようにするといいでしょう。また最近ソムリエの資格を持った店員が増えていることはいいことなのですが、自分の知識や好みだけで接客してしまいがちです。それではお客様は満足できず、お店にとってはファンが増えません。知識だけで接客するのだけは、気を付けたいものです。
    際は他の飲食企業に比べて、売り上げが良ければ、各店舗の現場にメニューや経営方針を任せてくれる自由な会社です。一方で、刻々と変化する飲食業界にて生き残るべく際の業態変更に対応できるよう、日々精進する必要があります。そのような過程を含めて楽しめるような料理人、サービスであってほしいと思いますね。



    カサブランカシルク 丸ビル

    東京都千代田区丸の内2-4-1 丸の内ビルディング5F
    03-5220-5612
    ランチ
    平日 11:00 – 15:00(L.O.14:30)
    土日祝 11:00 – 16:00(L.O.15:00)
    ディナー
    平日・土 17:30 – 23:00(L.O.22:00)
    日・祝 17:30 – 22:00(L.O.21:00)
    定休:施設休業日
    130席 ※カウンター6席
    禁煙



     
    ※掲載内容は2016年8月2日現在の情報となります。

  • Vol.5 太田眞矢

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    食にこだわりのある人々が集う表参道周辺には、美味しいレストランが数多くあります。そんな南青山でたくさんの人に選ばれる「トラットリア・フィレンツェ・サンタマリア南青山(以下「サンタマリア」)」。このお店で腕を振るうのは、イタリアはトスカーナ地方のフィレンツェで、4年間修業した太田眞矢料理長です。今回は、食の本場といわれるイタリアで、シェフが学んだこととは何か、お伺いしました。

    トラットリア・フィレンツェ・サンタマリア南青山
    料理長 太田眞矢(40才)
    辻調理師専門学校を卒業後、イタリア料理店に勤務。24才でフィレンツェにて修業を積み帰国。代官山や中目黒などのレストランを経て、31才で際コーポレーションに入社。青山にある「サンタマリア」の料理長になって今年で9年目になる。




     

    Q1.辻調理師専門学校ではフランス料理を学んだそうですね?

    父が長野でフランス料理屋を営んでいたので自然な流れでフランス料理を選びました。ところが辻時代、アルバイト先のイタリア料理に感化されこの道に入ったのです。もちろんフランス料理も魅力的なのですが、イタリア料理の素材をいじりすぎず、おいしさを活かす味付けは、和食に近いように感じて「肌に合う」という感覚がありました。

    Q2.イタリアで修業するお店の目星はついていたのですか?

    いいえ。料理を学ぶ情報やツテは全くない状態で渡伊を決めました。アルバイト先のイタリア料理店に就職して5年目、24才のときでした。語学学校だけは決まっていたので通学して顔見知りができるたびに「どんなお店でもいいので料理屋さんを紹介してほしい」と声をかけていました。ところが困ったことに、紹介してもらいようやく採用にこぎつけても、どういう訳かすぐにクビになってしまうという事態が。調理の経験は十分にあったと思うので、こちらの態度の問題でしょうか。言葉がわからないので理由も聞けずじまい。とうとう5店舗目のシェフに「明日から来なくていいよ」と言われた夜には、どん底まで落ち込みました。そして悩みに悩んだ結果、知らない土地だからと甘えてお店を紹介してもらうばかりで、「自ら行動していない」と気づき、自分でお店を探すことにしたのです。

    Q3.その状態からどのようにして、フィレンツェの3本指に入る有名レストラン「ブロンジーノ」に就職できたのですか?

    せっかくなら「一流のお店で修業がしたい」と、ファッション誌「フィガロ」に掲載されていたレストラン特集のお店を、ランキング1位から順番に面接を受けてみることにしました。レストラン側からしたら、イタリア語をロクに話せない、履歴書も持たない異国のアジア人が、アポイントもなしに突然入ってきて「給料はいらないから料理を学ばせてくれ」といわれて、本当に困ったのではないかと思います。しかし、一流店になればなるほど、私を席に通してくれるだけでなく、話をじっくり聞いてくれました。時にはスパークリングワインを出してくれるところも。一方、ランクが下がるほど、立っているだけでも迷惑だというばかりに門前払いするのです。この経験から美味しい料理を出すだけではなく、素晴らしいサービスがあって初めて一流店になれるのだと確信しました。結果、数社から合格をもらったのですが、一番フィーリングのあった「ブロンジーノ」を選び、4年間修業することができました。

    Q4.日本で習得したイタリア料理の技術は、イタリアでも通用しましたか?

    日本で5年以上勤めていたお店も本格的なイタリアンレストランだったこともあり、調理方法や味付けなどに関しては大きな違いは感じませんでしたね。強いて言うならば、日本と比べてイタリアの野菜にはエグミが強いということくらいでしょうか。ただ、イタリア人のマインドを学べたことは大きな収穫でした。イタリア人の作るイタリア料理は、良い意味で切り方も盛り付けもおおざっぱ。仕込み過ぎない、飾り付けすぎないからこそ、素材のおいしさが引き出されるのだと思いました。また、イタリアのレストランは、味だけでなくパフォーマンスでお客様を喜ばせるという精神があり、私もしばらくすると寿司のイベントを一任され、魚をさばいて寿司を握り、振る舞っていました。

    Q5.日本とイタリアで働く環境の違いは何でしょうか?

    日本の職人の世界は特に、技術を手取り足取りまでは教えない傾向にあると思うのですが、イタリアでは無給だったこともあり、一から十まで指導してもらえました。これは本当にありがたかったですね。また料理長が指示を出すだけでなく、みんなと一緒に最後まで働いているところも印象的でした。そして何より違うのが「休み」の多さです。当時、レストランも日曜・祝日は必ずお休みですし、昼休みは3時間ありました。また1年に1カ月間はお店を休業すると決められていたので、フィレンツェ中のレストランは調整して時期をずらしてちゃんと休むのです。

    Q6.「サンタマリア」の料理長として、来年の10年目、次の20年目にむけての心意気はありますか?

    現在、お客様にも食材を選ぶところから楽しんでもらうため、注文をお伺いするときに、その日仕入れた魚や肉、野菜などを席にお持ちするワゴンサービスをしています。これからもこのようなTPOに応じたパフォーマンスを極めていきたいですね。また、私がイタリア料理に通じるものがあると考える「和食」の要素を取り入れたニューを考案して、「サンタマリア」の長年のファンでいてくださる皆様を、あっと驚かせてみたいものです。




    トラットリア・フィレンツェ・サンタマリア

    東京都港区南青山4-1-1
    03-5772-8085
    11:30 – 15:30(L.O.14:30)
    18:00 – 23:00(L.O.22:00)
    定休:無休
    40席
    禁煙



     
    ※掲載内容は2016年6月29日現在の情報となります。